in

萩焼

この記事を読むのに必要な時間は約 3 分です。

萩焼の歴史

萩焼は、1592年「文禄・慶長の役」が起源であると言われています。

当時は茶の湯が大名に地位を表すということで発展し、茶器として高麗茶碗が珍重されていました。

そこで、豊臣秀吉は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に技芸のある陶工の招致を指示し、朝鮮から多くの陶工が日本へ連れて帰りました。

この時日本へと渡った陶工が、西日本の陶磁器が発展したことから、別名「やきもの戦争」とも呼ばれています。

その当時豊臣秀吉に茶の湯を嗜むことを許され、千利休との交流があった大名がいました。

それが、萩藩の開祖である毛利輝元です。

毛利輝元は、文禄・慶長の役の際に萩焼の礎である、李勺光と弟である李敬を招きました。

その後1600年の関ヶ原の戦いで、毛利輝元が戦に敗れ安芸の広島から長州の萩に場所を移しました。

毛利輝元と共に、李勺光と李敬が萩に築いた御用窯が萩焼の始まりと言われています。

当初は朝鮮式の高麗茶碗に似た茶碗が数多く作られていました。

明治維新以降は、近代化に伴い生産性を意識して萩焼が作られていき、窯元の数が減少してきましたが、明治時代後期に日本の伝統文化に再評価が起こりました。

三輪休雪が萩焼きに新たな作風を取り入れています。

大正時代には「一楽、二萩、三唐津」と呼ばれ、萩焼の知名度が上がっていきました。

そして、2002年には指定伝統工芸品として認定されています。

萩焼の特徴

萩焼には「萩の七化け」という言葉があります。

萩焼に使われる土は、目が粗く、耐火性が高くいことが特徴です。

つまり土の粒子が粗く、水分を吸収できる隙間を多くもっているのです。

焼き上がり後、萩焼の温度が下がる中で、素地と釉の収縮性の違いで生じる表面のヒビ割れを「貫入」と言います。

貫入に、お茶の成分や水分などが染み込むことで、味わいが変わっていきます。

長年使い込むほど、風合いが変わっていくことから愛着が沸き、器を育てているような気持ちになるのです。

また萩焼きは、絵付けなどの装飾はほどありません。

土の配合や釉の組み合わせ、焼き上げた時の炎の様子などが加わることで、萩焼が持つ独特な特徴が現れます。

色は萩焼が持つ色合いを活かし、褐色や白色、枇杷色など使用されている色は限られています。

また萩焼には、高台と呼ばれる茶碗や湯のみの足の部分に切り込みをいれたものが多く見られます。

これを、「切り高台」または「割り高台」と言います。

使い終わった茶わんを、ひっくり返して眺めるのが茶の湯の習わしでした。

茶わんの裏側の作られた「切り高台」には陶工の思いが込められているのです。

萩焼は、茶陶が主流のものでした。

現在は、萩焼が持つ伝統を受け継ぎながら、新たな創造力を加えながら食器や小物などさまざまな萩焼が登場しています。

萩焼の利用シーンと利用の注意点

萩焼は茶の湯で使用する茶器として広まっていきました。

現在は、茶器としてだけでなく作品として、日常生活で使われるものとして浸透しています。

萩焼の第一線として活躍されている有名作家が作り上げた、茶器や食器は作品として見ることもあります。

またマグカップやオブジェ、ポットなど日常的に使用できる萩焼を購入することも可能です。

萩焼の食器やコップを使った飲食店やカフェなどが、萩市周辺に展開されているので食事を楽しみながら萩焼に触れる人も多いです。

毎年5月1日~5日には「萩焼まつり」が開催されるなど、萩焼は私たちの生活に身近なものになっているのです。

萩焼の見学をできる工房

萩焼会館

山口県萩市新川東区3155

0838-25-9545

8:00~17:00

萩焼の体験をできる場所

萩焼窯元 千春楽城山

山口県萩市堀内31-15

8:00~17:00

Written by 赤津 陽一

竹細工職人の祖父を持ち、幼少より伝統工芸やものづくりの現場を見て育つ。日本のものづくりの現状を変えたいとの思いから、BECOS(ベコス)の立ち上げに参画。全国の職人やメーカーに対して取材や撮影、インタビューを行い自分の足で情報を集め、読者へ届けることにこだわっている。

美濃焼

常滑焼