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熊野筆

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広島県安芸郡熊野町

  • 1830年頃
  • 江戸時代

歴史

熊野町で筆作りが始まったのは江戸時代末期ごろだと言われています。

当時の熊野の人々は、主に農業で生計を立てていましたが、農地も少なく、それだけでは生活を支えきれず、農閑期には吉野(奈良県)地方や紀州(和歌山県)地方へ出稼ぎに出ていました。

出稼ぎの帰りには奈良や大阪、有馬(兵庫県)地方で筆や墨を仕入れて、行商しながら熊野に帰っていました。

これが熊野と筆を結びつけるきっかけとなりました。

こうしたことが繰り返されている間に、天保5年(1835年)佐々木為次は13歳の時、有馬(兵庫県)に行きました。

そこで彼は4年間、筆の作り方を学び、天保9年(1839年)17歳で熊野に帰ってきました。

また、弘化3年(1846年)井上治平(井上弥助)は18歳の時、広島の浅野藩御用筆司吉田清蔵より、筆作りの技術を学びました。

さらに同じころ、乙丸常太(音丸常太郎)も有馬(兵庫県)より、筆作りの技術を学び、熊野に帰ってきました。

そして彼らは人々に技術を広め、筆作りは熊野に根を下ろし始めました。

熊野筆作りが飛躍的に発展したのは、明治に入ってからです。

明治5年(1872年)に学校制度が出来、学校に行く子供が増えると、筆がより多く使われるようになりました。

そのため、筆作りをする人が増え、良い筆を作る努力や工夫がいっそう進められるようになりました。

明治10年(1877年)には、第1回内国勧業博覧会に出品された熊野の筆が入賞しました。

人々のこうした努力によって、熊野筆の名は、次第に全国に知られていくようになりました。

明治33年(1900年)に義務教育は4年間になり、学校に通う子供たちの数が増えると、筆はますます使われるようになりました。

この頃から東京、大阪、奈良などでは、近代産業の発展とともに次第に筆作りが衰え始めました。

一方、熊野には新しい産業が入らず、筆作りが地域を支える産業として発展していきました。

昭和11年(1936年)には、7000万本もの筆を作るまでになりました。

第2次世界大戦後、習字教育の廃止により毛筆の生産量が落ち込んだ時期もありましたが、昭和30年頃からは画筆や化粧筆の生産も始まり、昭和50年には広島県で始めて通商産業大臣により伝統的工芸品に指定を受けました。

特徴

熊野筆の特徴はヤギやウマ、シカ、タヌキ、イタチ、ネコなどの獣毛を原料としているところです。

穂先の毛を切り揃えず、「コマ」という木型を使用し穂先を出します。

自然毛を生かすことにより毛先が繊細で、適度なコシも持ち合わせた筆となります。

籾殻(もみがら)の灰の使用による毛もみや麻糸を使用した糸締めといった伝統的製法を用い、穂首を熊野町内で製作されたもののみが熊野筆を名乗ることができます。

熊野では国の「伝統的工芸品」の指定を受けた書筆をはじめ、画筆や化粧筆が作られています。

一本の熊野筆が完成するまでには70以上の工程が必要ですが、そのほとんどが手作業で行われます。

特に難しいとされる筆に使用する毛を選択する選毛(せんもう)・毛組み(けぐみ)という工程をはじめ、全ての工程において熟練した技術が必要です。

Written by 赤津 陽一

竹細工職人の祖父を持ち、幼少より伝統工芸やものづくりの現場を見て育つ。日本のものづくりの現状を変えたいとの思いから、BECOS(ベコス)の立ち上げに参画。全国の職人やメーカーに対して取材や撮影、インタビューを行い自分の足で情報を集め、読者へ届けることにこだわっている。

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